光り輝く向こう側

"何か"に惹かれて、憧れて。その光の向こうへ。

紙飛行機

みなさんは子供の頃、紙飛行機で遊んでいたことが一度くらいはあるだろう。私も保育所や小学校低学年のときに紙飛行機を作っては友達とどれだけ長い距離を飛んでいられるか競い合って遊んでいたことがある。

今回はそんな紙飛行機について書こうと思う。ここから書かれているものは自分の個人的な考えなので、あまりあてにしないでこんな考えを持ってるんだぁっていうような気分で読んでほしい。



紙飛行機は一枚の紙でできている。それは何も手を加えずに勝手に飛行機の形になることはなく、人が紙を折って飛行機の形を作っていく。

そんなの当たり前でしょ?と思っているだろう。でも、裏を返せば、人が手を加えないと紙飛行機になることはないということを意味する。


それらのことは「人」に置き換えられるような気がする。


例えば、将来はこういうのになりたいと思っている子供がいるとする。そのとき、たった自分一人でそのなりたいものを見つけた子供はなかなかいないと思う。

親が一緒にその現場へ連れて行ったり、買ってもらった本や図鑑を読んだり、家にあるテレビを見たり、友達との話のなかで知ったり...など直接であろうと間接であろうと必ず誰かの手が介入されていて、そこでなりたいものを見つける。


結局何が言いたいのかというと、紙飛行機を折るという過程が比喩のような意味合いで知っている人、知らない人まとめて周りの誰かの力を借りて今の自分を形作っている。その周りの誰かの力が無かったら今の自分にはならなかったと思うときがある。


紙飛行機を飛ばすときでも、人が投げることで飛んでいく。風の力も使って。それでもときには、うまく飛んでいかないときもある。

これも、先ほどのように置き換えてみると、周りの支えがあるからこそ頑張れて目標に向かって突き進んでいるというような感じに捉えられるのかなと思う。


風で押し戻されたり、障害物に当たって墜落してしまったりして飛んでいかないときは挫折でどうすることも出来ない感覚を何度も味わっている状態と同様のような気がする。

それでも、紙飛行機を長く遠くへまっすぐ飛ばそうと投げる人が試行錯誤してなんとか飛ばそうと試みている。ときには友達と一緒に。まるで、挫折をしている人に手を差しのべて手助けしているかのように。

うまく軌道に乗っていった紙飛行機を眺めている姿はきっとこの上ないほどの嬉しさや笑みを浮かべていることだと思う。




千歌ちゃんが紙飛行機を飛ばしていたように、作品中には何度も紙飛行機が飛んでいくシーンが見られた。その紙飛行機はそんなことを私たちに伝えたかったのかなと。

千歌ちゃんをはじめ、Aqoursのみんなは個人としても、Aqoursというグループとしても数多くの人たちに支えられていました。よいつむや浦女の生徒たち、美渡ねぇや志満ねぇ、沼津の人たち、Saint Snow、月ちゃんや統合先の学校の生徒たち、そしてAqoursのメンバー同士で。もしかしたら、私たちには知らない人たちからも。

飛び立っていった紙飛行機は途中で落ちそうになる。でも、持ち直してさらに飛んでいくのは、その苦悩の中で自分自身で答えを見つけたことなのかなと。



映画の最後のシーンでも砂浜に落ちた紙飛行機がある。そこには私たちにはわからないけれどメッセージのようなものが書かれていた。(後日確認したところ、千歌ちゃんがUDX前で手放した東京で開催された大会の結果の紙だと思われる。)そのメッセージであろうと、紙飛行機であろうとそれはたぶんスクールアイドルを始めたい彼女たちへの伝言なのだと思う。




そんな私も何度も壁にぶち当たっては、背中を押され、ここまで生きてきた。不安定ですぐに落ちてしまう紙飛行機を何度も飛ばしてもらい、ときには紙飛行機の形まで変えてもらいながら。今でもそれを繰り返していることだと思う。

そんな私は、今度は紙飛行機を飛ばしてあげられる人になりたいと思っている。たとえ、知らない人だとしても少しでもその力になれるのであれば。




十数年ぶりに紙飛行機を折ってみた。そこには、子供のときに今まで作ってきたその当時の想いとは違った感情が込みあげてきた。いつかこの紙飛行機を飛ばして遊んでみようと思う。別の意味でそんな日がくることを願いながら。


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